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viernes, 11 de agosto de 2017

聖クララおとめ 


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聖クララおとめ (Sancta Clara V.) 記念日 8月12日

 1212年の枝の日曜日のことであった。アッシジの公爵スチフィ家の裏門から、花嫁のような装いを凝らした若い一人の貴婦人が、従者とも見える今一人の女をつれて忍び出、そこから程遠からぬポルチウンクラの小聖堂へと急いだ。彼等がその前まで来ると、中からは数人のフランシスコ会修士が、手に手に灯火を携えて出迎え、その若い貴婦人を祭壇の下まで導いた。やがて厳かな祈祷や聖歌の声が交々堂内に響いたが、再びもとの静寂に帰った時、先のおとめは髪を切られ、被り布を戴き、粗き衣に縄の帯を締め、変わり果てた姿となってうれし涙にくれながら御聖櫃の御前に平伏しているのであった。そもそもこれはどうしたというのであろう?またこの婦人は一体何人であろう?
 その三年前に遡る、同じアッシジの町に大富豪と謳われているベルナルドネという商人の一人息子フランシスコは、感ずる所あって家出し、今までの贅沢とは打って変わった清貧の生活を始めた。それを見た人々は最初こそ彼を狂人と卑しめたものの、間もなくその徹底的な禁欲克己に驚嘆し、その身を以て教え口を以て説く福音に感動し、イエズスの再来の如く尊崇するに至った。そればかりか、中には彼のあとに倣う事を望む者も少なからずあった。そしてスチフィ公爵の長女クララもその一人であったのである。
 聖フランシスコは彼女の願いを聞いて暫くの間その人となりを調べ、人並み勝れて熱烈な天主への愛、福音実践に対する燃えるような憧れ、溢れるばかりの犠牲や祈祷の精神を有していることを確かめると、いささかの躊躇もなく主の召し出しに従うようにすすめた。本文最初に記した若き貴婦人とは即ち右のクララで、ポルチウンクラの聖堂に行われたのは、とりもなおさず彼女が親兄弟を離れ世間を捨ててフランシスコの霊的子供として清貧の修道生活に入ったかどでの着衣式に他ならなかったのである。
 かくてクララは聖フランシスコ最初の女弟子となり、いわゆるフランシスコ第二会(クララ会)の創立者となった。が、一方スチフィ家の人々は彼女の家出を知って大いに驚き、探索の結果その修道女となっていることをつきとめると、親戚の誰彼を派して彼女を連れ戻そうとした。世俗的な考えしか持たぬ彼等には、一族から乞食同様の清貧に甘んずる世捨て人を出すことがこの上もない名折れと思われて、到底忍ぶことが出来なかったのである。
 さて親戚の人々がクララを探し出した時、彼女は聖堂で一人祈りを献げていた。彼等が力づくで彼女を連れ戻そうとすると彼女は必死となって祭壇に縋りついたまま、切られた髪を見せ、一度この道に入ったからにはどんな事があっても心を翻しませんと断固たる決意の程を示したから、ついには追っ手の人々もあきらめて空しく帰る外はなかった。
 ところがクララの妹アグネスは姉の求道の志し堅きに感激し、六日の後自らも家出して姉の許に奔り、共々修道にいそしむ覚悟を定めた。スチフィの一族は重ね重ねの出来事に烈火の如く憤り、数名の家来を引き連れてすぐさま後を追いかけてアグネスを引き捕らえ、踏んだり蹴ったりさんざんの目に逢わせた挙げ句、無理無体に家へ連れ帰ろうとした。しかるにその時クララが天主の御加護を祈り求めると、不思議にも妹の身体は急に盤石の如く重くなり、一寸も動かすことが出来なくなったから、人々は驚き呆れ、これが天主の聖旨ならばと、詮方なくアグネスの出家をも許してそこを引き取ったのであった。
 聖フランシスコは聖女クララとその同志に、聖ダミアノの小聖堂を本拠として与えた。この聖堂は久しく荒廃していたのを、その数年前彼が天主の命に従い独力で修理したという由緒のあるものであるが、フランシスコは常々預言者の如く「いつか時来たらばここには敬虔な婦人達が住まい、天に在す御父や全聖会の喜びとなるような完徳の生活を営むであろう」と言っていた。それがはしなくも実現して、それから42年間というものの、クララは弟子なる修道女たちを指導しつつ、此処で相共に福音的完徳の生活を送ったのである。
 彼女が我が身を修める峻厳さは驚くばかりで、為にアッシジの司教やフランシスコは、その健康を害することを懼れ、彼女が苦行を緩和し、肉親的よりも霊的に犠牲を献げるよう厳命した位であった。クララは修道の精神こそ誰にも劣らぬほど熱烈であったが、身体は決して丈夫な方ではなかったので、こうした苦行が過ぎたのか長い間患い、幾年も病床に就いていなければならなかった。しかし彼女はよく忍耐して常に柔和な態度を失わず、天主の御摂理を讃美し、病苦を推して祭服や祭爵用の亜麻布を織り、美しい刺繍を施してはこれをウンブリア地方の貧しい教会に
送ったりしたのである。
 クララは自分に対してこそ秋霜のように酷烈であったが、目下の修道女達に対してはさながら慈母のように優しかった。さればその徳を慕いその指導を望んで、彼女の傘下に馳せ集まるおとめ等の数は日に日に増加するばかり、しかもその多くは名門貴族の令嬢達であった。クララの母ホルツラナも夫が没すると来て修道院に入り、わが娘を先達として完徳への道を辿ることとなった。
 戒律により積極的に会の収入を図ることが禁ぜられているので、数多の修女達を擁して生計を立てて行かねばならぬクララは、ひたすら、天主の情ある御摂理により頼む外はなかった。彼女のその堅い信頼は常に報いられ、殊に窮乏の甚だしい時には、しばしば奇蹟さえも起こった。例えばただ一片しかないパンが修女達の食にして余りあるほどに殖えたり、またクララが十字架の印をすると空の油壺に油が一杯になったりした。なお後のグレゴリオ9世教皇、当時はいまだ枢機卿であったフゴリノが彼女の修院を訪問して晩餐を共にされた時、クララが掩祝をお願いすると、却って彼女に掩祝することを命ぜられたが、謙遜な彼女が素直にその言葉に従い十字架の印をするや、たちまち座にある一同のパンの上に小さな十字架の印が現れたなどという話もあるし、クララの掩祝によって病者が奇跡的に治癒全快した例も少なからず伝えられている。
 1240年、ドイツ皇帝フリデリコ2世と同盟したサラセンの大軍はウンブリア地方のスポレトその他の都市村落を席巻し、アッシジにも侵入、クララの修道院も危機に瀕した。その時聖女は聖堂の祭壇の下に平伏し、「主よ、私に主の愛し給うおとめ達を護る力がございません。願わくは主御自ら、その全能によって彼等を護り、之を異教徒の手にわたし給わざれ」と熱誠こめて祈願した後、さておもむろに身を起こして御聖体の納めてある銀の容器を捧げ持ち、しずしずとサラセン軍に近づいて行った。すると不思議にも、彼女の手にある御聖体器からは、眩い光がさっと迸り出て敵の目を射たから、異教徒共はびっくり仰天し、あわてふためき雪崩を打って潰走してしまった。
 後クララは教皇及び聖フランシスコの厳命黙し難く、大修院長の任に就いたが、いささかもその謙遜の念を失わなかった。ある日彼女は他の修道院から来た一修道女の足を洗い、洗い終わるやこれに接吻しようとした。驚いた相手は慌てて足をのけようとする弾みに、誤って聖女の額を傷つけた。しかしクララは少しも色を動かさず、微笑みを含んだまま又もその足を捉え、優しい接吻を与えたという。その勝れた謙遜の徳は推して知るべきである。
 クララはフランシスコをわが霊的父、己をフランシスコの小さき芽生えと称し、彼を一方ならず愛していたが、その聖徳の高さを仰いでは尊敬の念がいや増さるばかりであった。またフランシスコの方でもクララの比類なき宗教的素質を見ては責任をもって之が指導に当たり、折りにふれて良き勧告を与えることを怠らなかった。しかし両聖が互いに相逢うことは寧ろ極めて稀であった。
 フランシスコはその臨終の近き頃、クララ及びその娘達に、死して後再び見ゆる約束をした。この約束はやがて果たされた。クララを始め修道女達は、フランシスコの弟子達によって彼等の修道女院の庭にかき据えられた、棺に横たわる物言わぬ師父を前にして、熱い追慕の涙にくれたのである。
 世にある間忠実にフランシスコのあとに倣ったクララは、世を去る時も甚だ彼に酷似していた。即ち聖人が弟子達に対して為した如く、彼女も娘なる修女達に一人一人愛のこもった掩祝を与え、1253年8月11日の朝、眠るが如く息絶えたのであった。
 生前つとに聖女と取りざたされていたクララは、死後僅かに2年を経たばかりで、教皇アレクサンデル4世により、正式に聖列に加えられ、その名は永遠に燦として輝いている。
教訓
 クララとは光の義である。宣なるかな、その聖徳の光は今日に至るもいよいよ冴えて、主の御あとを慕う人々に天国への道を照らし示している。我等もその光を仰いで以て倦まずたゆまずこの道を辿ろうではないか。
カトリック教会の外には絶対に救いがありません

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